ルックバックの評価が二分した理由についての考察と、ルックバックへの感想

※このページには、『ルックバック』の致命的なネタバレが含まれます!※

 

 

 

 

『ルックバック』はジャンプラでの公開と同時に爆発的にSNSで評判になったが、評価は大きく二分されていたように思う。

「この漫画はとてつもなく凄い」という声と、「面白かったけど皆が絶賛している点はピンと来ない」という声である。

ピンと来なかった人の投稿を見ると主人公である藤野歩が最後に漫画を書き始める理由がよくわからないし共感できなかった、という言葉が多い。

感覚的に凄さを感じて絶賛している人の中にもこの理由については詳細に理解・言語化できていない、という人が多い。

僕も言葉にはせずただ記憶にしまい込んでいたがこの映画化の機会に感想を文章に起こしておこうと思う。

 

つまりこのページには、以下の3点が"個人的な視点から"書かれている。


・藤野歩が漫画を書き続ける理由
・ルックバックの感想が二分する理由
・俺の感想

 

なるべく簡潔に書くために、あらすじについて説明したりはしない。あしからず。

 


■創作は無力だし、なんならやらない方がマシ

京本の死後、京本の部屋の前に藤野が立つシーンから話を始めようと思う。

「私があの時……漫画描いたせいで…」
「京本死んだの あれ? 私のせいじゃん……」
「なんで描いたんだろ…」

美大で京本が殺されたことを受けての、藤野の台詞である。

 

このシーンで藤野は、こう考えている。
・京本は、自分の描いた4コマ漫画をきっかけに部屋から出た。
・京本が部屋から出なければ、美大に入るきっかけもなかった。
・つまり、自分の漫画が、京本が死ぬ原因になった。

 

これらは、続けて描かれるIFの世界で完全に否定される。

IFの世界では、京本が部屋から出なかった場合の出来事が描かれる。


京本は、部屋から出ない。
京本は、一人でも絵を描く。
京本は、藤野とは関係なく、背景美術の世界に魅せられる。
京本は、藤野がいなくとも美大に合格する。
そして京本は、暴漢に襲われる。

 

つまり、藤野が考える「4コマ漫画が京本を殺した」というのは藤野の気のせいである。

藤野は、自分の創作では、京本の未来を一切変えられない。
創作は人を救わない。害ですらない。ただ無力である。

ただし、IFの世界には、現実と違う点が1つだけある。
暴漢が、『共に漫画を描かなかった藤野』によって撃退されるのである。

藤野は、創作ではない手段でなら、京本の未来を変えられる。
人を救いたいなら、大切な人を失いたくないなら、創作なんかしてる場合ではないのである。

だって創作は無力なんだから。


この段落の要約:
京本の死からIFの世界のシーンまでで描かれることはこうだ。
"創作は無力で、なんならやらない方がマシである。"

 

■なぜルックバックの評価が二分したか

さて、IF世界以降のルックバックのお話はこんな感じである。

 

・創作は無意味だ。漫画を描いていなければ京本は死ななかった。

・京本の部屋から、藤野と作品を追い続けていた形跡が見つかる。

・藤野歩は漫画を描き続けました。

 

ここである。

ここで、藤野にどれぐらい共感できるかで、この作品の感想は変わる。

 

もしあなたが藤野に共感できなかったならば、このお話のラストは「死んだ戦友、藤野のためにもがんばるぞ!」というとりあえず人が死ねば感動するんでしょ?みたいな陳腐なノリで終わる

それか、「いや、『漫画で人を殺した』とまで思い込んでる藤野が、漫画をまた続けようと思う動機が薄くない?」と思い不完全燃焼で終わる。

 

だが、藤野の思いを察して共感出来た場合、『ルックバック』は強烈なメッセージ性を持つ。とりわけ、創作を趣味・仕事にしている人間に対して刺さるメッセージだ。

 

そのメッセージを受け取らなかったとしても、ルックバックは先述の「陳腐なお話」として成立する。

 

ルックバックの評価は、最後に藤野が漫画を書き続ける理由に共感できるかどうかで大きく分かれるはずだ。
共感できればできるほど名作、できなければ凡作と感じる。

そして、藤野の思いは誰しもが共感できるようなものではないし、ある種の狂気と言うことすらできる。

 

それが、ルックバックの評価が二分した理由だと思う。

藤野が漫画を描き続ける理由は、次の段落で記述する。

 


この段落の要約:
ルックバックの読者は藤野が漫画を描き続ける理由に共感できるか、できないかに二分される。
藤野が漫画を描き続ける理由は次の段落で書く。

 

■『じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?』

藤野はなぜ漫画を書き続けるのか?
それは、『描くのをやめない事が、創作の美しさを否定しない唯一の方法だから』である。

 

京本の部屋に入った藤野は、ドアに掛けられた自分のサインを見る。藤野歩の背中である。

それから、過去を回想する。
自分の漫画を食い入るように読み、表情を次々に変える京本。
共に漫画を描き、笑いあう京本と自分。

漫画を描くのは、楽しかったのだ。
漫画が、自分と京本のかけがえのない時間を生んだのだ。

 

創作をしたことがある人の多くが、この姿に共感するだろう。
創作活動は、楽しく、そして美しい。

 

創作が無意味である事実は変わらない。現に、漫画を描いていなければ京本を守れた世界があり得たのだから。
だが、その"事実"を認めてしまえばどうなるだろう?
もし、藤野がここで「漫画なんて描いてる場合ではない、大切な人を二度と失わないために」と言えば、どういうことになる?

 

創作の楽しさに魅せられた自分と、自分の創作で魅せた読者である京本、共に過ごした時間、すべてを「人の命に比べれば、ちっぽけで無意味な存在」だと断じることになる。

 

藤野歩には、それができなかったのだ。

 

例え漫画を描いていたせいで大切な人が死んだ・あるいは守れなかったとしても、創作に魅せられた自分・魅せた読者の感情・体験を『無意味』だと認める行動は取れなかったのだ。

 

だから、藤野は、漫画を書き続けるのである。
藤野が漫画を描き続ける限り、京本と藤野が愛したきらめきは肯定され続ける。京本の死と共に

 

この感情は希少なものとは言わないが、普遍的なものではないと思う。

「創作が無力というのがピンと来ない」と思う人もいるだろうし、「創作を始めとして趣味はやりたいからやるものだし、なんでそんな重い話になるの?」と思う人もいるだろう。

ここで発生する温度差が、先述の通り『評価の二分』に影響するのではないか。

 


この段落の要約:
無意味であることを認めない限り、虚構はきらめき続ける。

 

■俺達は藤本タツキに背中を見せられている

『ルックバック』作中には、いくつも"背中"が登場する。

 

京本が励みにし続けた藤野のサインが描かれた背中(はんてん)はもちろん、
藤野が漫画を描く姿は作中何度も繰り返し背中から描写される。
最後の数ページでは、京本の部屋を見た藤野がまっすぐに仕事場に向かう背中が描かれる。

"背中"は、漫画を描き続ける事の象徴である。


さて、『ルックバック』が完成して読者に届けられているということは、メタ的な意味を持つ。なんてったって、『ルックバック』の存在は、藤本タツキ先生が漫画を描き続けていることの証左だ。

 

藤本タツキはまだ、漫画をやめていない。

 

つまり!!!!!!!!


藤本タツキが「創作は"まだ"無意味ではない」って俺達に言ってるってこと!!!!!

 

「見ろ、俺は描き続けているぞ、お前が漫画を読んで得た感動は無意味ではないぞ」って、

 

「この漫画を読んで感じる物があったなら、お前にも同じことができる、けして無意味なものにはならない」って

 

「お前が描き続ける限り、お前が人の作品から得た感動や、創作の過程で生まれた煌きは無意味にならない」って、


「俺は描き続けている、お前に背中を見せている、お前の背中も誰かが見る」って、


藤本タツキがそう信じて、俺達に言ってるってことなの!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

強調しておくが、これらの文章は俺の個人的な感想を綴ったものである。

文章の内容について一切の保証をするつもりはない。

 

この段落の要約:
藤本タツキの背中はむちゃデカい


■『ルックバック』の感想

俺は趣味で絵やゲームを作ることがあっても創作者などと口にするのも恥ずかしい木端だから、『ルックバック』を見ると先達が持つ美学やバイタリティ、経験が眩しく惨めな気持ちになる。

それでも藤本タツキの背中を見たのだから、「自分がなにか作ることはけして無意味ではない」と胸を張って言える準備ぐらいはしておこうと思った。

 

今回は主にクライマックスについてのみ語ったが、改めて言うまでもなく『ルックバック』は頭から最後まで美しく、面白い名作である。

 

全体を通しての書評は他の人が書いてるのを読んでほしい。
こんなデタラメと個人の思い込みが羅列されているだけのページを見ている場合ではない。